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ここは異国⁉ 神戸を歩いて巡る世界の宗教施設

神戸といえば「港町」とともに「異国情緒」というイメージで語られることがよくあります。

その始まりは19世紀半ば、横浜、長崎、函館、新潟と並び、神戸が日本で最初の開港地に選ばれたことにあります。以来、異国から多くの人々が移り住みました。ただ、神戸が他の開港地と違った点として、広大な「雑居地」の存在が挙げられます。

区画を整然と分けた外国人専用の「居留地」の整備が神戸では遅れ、外国人と日本人が隣り合わせで暮らす「雑居地」が周辺に設けられました。異人館で知られる北野エリアや、中華街の南京町がそうです。そこから神戸独自の文化が生まれました。

異国の人々の日常が息づいてきた神戸には、「食の世界旅行」ができるほどさまざまな国の料理の飲食店や食材店が点在していますが、同時に、さまざまな宗教施設が密集していることは、それほど知られていません。食と並んで、「信仰」は各国の人たちの暮らしに欠かせないものでした。

今回は私、ぶらっくまが、今も日々祈りが捧げられている、日本ではちょっと珍しい宗教施設を紹介します。異国を感じさせる建物なども魅力です。

なお各施設は外観の見学は自由ですが、内部見学の可否、時間帯、規則(肌の露出禁止)などはそれぞれ異なります。事前にお問い合わせください。

日本最古のモスク「神戸ムスリムモスク」

神戸ムスリムモスク=神戸市中央区中山手通2

 外国人が多く暮らす山手にある「神戸ムスリムモスク」(神戸市中央区中山手通2)。貿易業を営むインド人やロシア革命で亡命してきたトルコ系タタール人ら、ムスリム(イスラム教徒)が1935(昭和10)年に設立した日本最古のモスクだ。
 神戸は戦前、日本でイスラム教徒が最も多い街で、30年代には300人以上。シリアやイラク、パキスタンなどの貿易商もいたという。
 彼らがモスク建設の寄付を呼び掛け、チェコ出身の建築家ヤン・ヨセフ・スワガーと竹中工務店により完成。「神戸市の如き国際都市にとって誠に相応ふさわしい」と勝田銀次郎市長は祝辞を贈った。ドームの先端に三日月の飾りを掲げた多彩な意匠の建物は、ミナト神戸を象徴する建物として人々に親しまれた。
 だが、戦争が国際都市に暗い影を落とす。ムスリムを含む外国人には監視の目が光るようになり、多くが神戸を立ち去った。モスクは43年、海軍が接収。生活の一部である信仰の場まで奪われた。しょう弾が何度も市街地を襲った戦争末期から戦後にかけて、モスクがどのような様子だったかは、詳しく分かっていないという。
 神戸のムスリムの間では、空襲時に地域住民の避難場所となったと伝えられる。神戸モスクでイマーム(指導者)を務めるパキスタン出身の男性によると、焼け残ったモスクは、家を失った戦災者を受け入れた。「それぞれの母国から届いた救援物資や果物などを日本人とも分かち合った」という。
 1995年の阪神・淡路大震災でもモスクは倒壊することなく、避難所として機能した。一時は40人以上の国の異なるムスリムが身を寄せ、近くの日本人避難者と配給や炊き出しを行った。
 「(神戸は)ムスリムを迫害しない素晴らしい街だと思う」と指導者の男性。「アッラー(神)の下に全ての人は平等です。戦争や地震で困っている人々が、イスラム教徒かそうでないかは関係ないのです」
 二つの大きな災禍をくぐり抜けた神戸モスクには、県内外から礼拝者が訪れ、あらゆる人に見学の扉を開いている。

2020年8月12日付朝刊記事より抜粋
神戸ムスリムモスクの建物内

神戸ムスリムモスク
神戸市中央区中山手通2-25-14
電話:078-231-6060

日本唯一のジャイナ教寺院「バグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院」

白亜の大理石でできた「バグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院」=神戸市中央区北野町3

 ジャイナ教をご存じだろうか。西インド・グジャラート地方を中心に分布し、厳格な菜食主義や不殺生で知られる宗教だ。
 日本で唯一、建物の独立した祈りの場が「バグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院」(神戸市中央区北野町3)。神戸には戦前から、貿易に携わるインド人が暮らし、コミュニティーが形づくられていた。
 神戸市のインド人人口は約千人。うち約600人が中央区で暮らす。同寺院の信徒で貿易商の男性(46)によると、ジャイナ教徒のコミュニティーは約120人。インドでは人口の約0・4%、数百万人というから、神戸における割合はかなり高い。
 神戸を中心とする県内のインド人は開港以来、数を増し、1937(昭和12)年には600人を超えた。戦時中には多くのインド系商社が離れたが、60年代頃から再び増えていく。特徴的なのは、神戸が世界的な加工・集散地となっている真珠業者。ジャイナ教徒には宝石商が多いという。
              ◇   ◇
 寺院は85年、資金を出し合って完成した。白く輝く大理石はインドから取り寄せられたといい、金属の扉ともども、動植物などの装飾が美しい。
 教えの中でも最も重視されるのは「生き物を殺さないこと」。肉や魚を食べないのはもちろん、根菜類も避ける。小さな虫も手で払うだけで、殺さないよう気を付ける。「どんな生き物にも魂がある。今は人間でも、来世は虫に生まれ変わるかも知れませんからね」と先の信徒の男性。りん転生から魂(アートマン)が解放され、解脱に至るのがジャイナ教の目標だという。
 この信徒の男性は神戸で生まれ育ち、さまざまな宗教が共存し、異文化を受け入れる風土を肌で感じてきた。一方で、人種差別や国家間の争いが絶えない世界に、強い口調で訴え掛ける。「ここでは皆がお互いに認め合っているから、争いは起きない。神戸でできていることが、他の地域でできない訳がありません」

2020年8月20日付朝刊記事より抜粋
寺院の正面にあるきらびやかな扉。動物や人物の華麗な装飾が施されている

バグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院
神戸市中央区北野町3-7-4
電話:078-241-5995

杉浦うね「命のビザ」の舞台にも 「関西ユダヤ教団・シナゴーグ」

関西ユダヤ教団のシナゴーグ=神戸市中央区北野町4

 第2次世界大戦の嵐が欧州を吹き荒れる1940~41年、神戸の街にナチス・ドイツの迫害を逃れる人々が押し寄せた。駐リトアニア領事代理・杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を手に、一時滞在したユダヤ人難民。その数は4千人以上といわれる。
 外国人の多い神戸には、12年ごろ既に、ユダヤ人のコミュニティーが形成され、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)が設立された。国内でユダヤ教組織があるのは現在も東京と神戸だけだ。
 その「関西ユダヤ教団」のシナゴーグ(神戸市中央区北野町4)を訪ねると、ラビ(指導者)の男性(35)が迎えてくれた。男性はニューヨーク出身でイスラエルで学び、2014年に来神。神戸とユダヤ人の関係を語る上でも避けられない戦争の話を巡り、「日本の人に知ってもらいたい」と、これまで公にしてこなかった一族の壮絶な過去に触れた。「私の祖母は、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)で家族を殺されたんです」
              ◇   ◇
 男性の祖母(96)は1941年、ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で兄の家族と暮らしていた。同年6月、ナチス・ドイツ軍がソ連に侵攻。レニングラードは包囲され、解放までに飢えや寒さで命を落とした人は、約100万人ともいわれる。
 「軍人だった兄の助けで、祖母たちは包囲戦の前に脱出できたが、兄は飢餓作戦の犠牲となった」。だが祖母らが逃れた故郷の小さな村も、既に安全な場所ではなくなっていた。「ナチが『特別行動部隊』を設置していたのです」
 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は、前線後方の占領地域でユダヤ人や共産党員ら「敵性分子」を銃殺する任務を負って、組織された。「村のユダヤ人は大きな穴を掘らされ、その穴は銃殺されたユダヤ人の死体で埋め尽くされました」。両親と7人きょうだいの家族のうち、生き延びることができたのは、男性の祖母ともう一人だけだった。
              ◇   ◇
 犠牲者数約600万人といわれるホロコーストの悲劇について、ラビの男性は恨みや怒りをあらわにすることはない。「迫害され、略奪され、拷問され、殺された最悪の時でも、ユダヤ人にはあらゆる苦しみは終わるという希望がありました」
 ユダヤ教では、神の使命が果たされた時、いさかいや戦争はなくなるとして、「これは世界共通、全人類にあてはまる。そのために私たちはもっと、慈しみと優しさを持たなくては」と呼び掛ける。 

2020年8月14、15日付朝刊記事より抜粋

ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害した時代の神戸は、手塚治虫氏の漫画「アドルフに告ぐ」でも描かれていますね。

シナゴーグに近い神戸・北野の一角には今も、ユダヤ難民救済の拠点だった神戸ユダヤ共同体(神戸ジューコム)の石垣が残り、世界各地からユダヤ人が訪れます。今年2月には1人の男性が82年ぶりにこの地に立ちました。

「神戸ジューコム」の石垣に触れ、神戸での日々に思いをはせるマルセル・ウェイランドさん=2023年2月、神戸市中央区山本通1

 第2次世界大戦中の欧州で、ナチスドイツの迫害を「命のビザ」によって逃れ、神戸に滞在したユダヤ難民の男性が、82年ぶりに来日した。2月25日には、当時の面影を残す中央区・北野地区を訪れ、集まった地域住民らを前に「ずっと『ありがとう』と言いたかった」と笑顔を見せた。
 男性はポーランド出身で、現在はオーストラリアで暮らすマルセル・ウェイランドさん(95)。1939年、ドイツが祖国に侵攻し、家族とともに隣国リトアニアへ逃れた。現地にいた日本の外交官、杉原千畝氏は、同じような境遇のユダヤ難民数千人に対し、独断で日本通過ビザを発給。このビザによって救われた一人が、ウェイランドさんだった。
 旧ソ連のウラジオストクから福井県の敦賀港を経由し、41年にユダヤ人コミュニティーがあった神戸へ。当時、ウェイランドさんは14歳。大丸百貨店で焼きそばを食べたり、宝塚で歌劇を鑑賞したり。神戸で過ごした約7カ月間を「穏やかで幸福な時間だった」と振り返る。その後、中国を経由して46年にオーストラリアへ渡った。建築関係の仕事に就き、現在はシドニーで孫2人と暮らす。
 北野地区の学校法人「コンピュータ総合学園」の敷地内には、ユダヤ難民救済の活動拠点だった「神戸ジューコム」の石垣がいまも残る。ウェイランドさんは、右手で触れると、一言「エモーショナル」とつぶやき、左胸に手を当てて日本語で「ありがとう」と繰り返した。

2023年2月26日付朝刊記事より抜粋

関西ユダヤ教団・シナゴーグ
神戸市中央区北野町4-12-12
電話:078-242-7254

三国志ゆかり 華僑の信仰集める「かんていびょう

神戸華僑の心のよりどころである関帝廟=神戸市中央区中山手通7

 三国志の英雄・関羽を主神に、神戸華僑から信仰を集める中国寺院「関帝廟」(神戸市中央区中山手通7)。華僑の歴史に詳しい男性(69)の案内で訪ねると、思いがけない言葉を聞いた。
 「戦災孤児たちの施設がここにあったそうです」。その名を「華僑福児院」といった。
 関帝廟は1888(明治21)年、おうばく宗万福寺の末寺を大阪から移転したのが始まりとされる。神戸に根を下ろした華僑にとって、葬儀や伝統行事が営まれる心のよりどころ。それが、1945年6月の神戸空襲により、失われた。
 再建の願いは強く、47年には長野市の善光寺から、中国山東省出身のしゃくじんこう師(本名・とうきんめい、1913―1987年)を住職に迎え、本堂が翌年完成した。
 福児院の誕生は、釈住職の来神間もない時期の体験がきっかけだったという。トアロードを歩いていた時、パン店の前で3人の子どもが「パンを盗んだ」と、主人にぶたれているのを目にした。代金を払い、事情を聞くと、母親が薬物中毒で誰も面倒をみる人がいないということだった。
 戦後の混乱期、戦災孤児だけでなく、病気や事故で親を亡くした子どもも増えていた。関帝廟の建物を福児院とすると、多いときで30人ほどを養育した。台所は決して豊かではなかったが、おなかをすかせないよう、妻の麻子さんは愛情を注いだ。神戸を代表する中華料理の名店、神仙閣や第一楼などが食べ物を分けてくれるなど、同胞の支えもあった。
 神戸華僑幼稚園(神戸市中央区中山手通6)の前身「光華幼稚園」も51年に設立し、温和な人柄から「湯先生」「湯和尚」と親しまれていた釈住職。70年代に最後の子どもたちを送り出すと、長い戦後の活動を終えた。
 それから半世紀。戦争の記憶と共に、当時を知る人も今は少なくなっている。「戦後の混乱の中でも慈しみの心を持ち、子どもたちを救う人がいた。神戸華僑と関帝廟の歴史を、次の世代に伝えていけたら」と案内してくれた男性。関帝廟に飾られた写真の中で、釈住職は温顔をみせている。

2020年8月13日付朝刊記事より抜粋

関帝廟
神戸市中央区中山手通7-3-2
電話:078-341-2872

周辺にはほかにも、異人館を見渡す高台にある「北野天満神社」、インド仏教様式の大寺院「本願寺神戸別院(モダン寺)」、異人館街の中心に位置する「カトリック神戸中央教会」、神戸を代表する洋画家でクリスチャンだった小磯良平の邸宅跡に立つ「神戸バプテスト教会」、ロシア正教系の「神戸ハリストス正教会」など多くの宗教施設があります。

こうした多様な祈りの場が、徒歩圏内に隣り合っているというのも特徴です。さまざまな宗教施設が共存する神戸・北野を、世界文化遺産に登録しようと目指す動きもあります。

ウクライナ侵攻などで国際社会の分断が進む今、神戸のこうした施設を歩いて巡り、旅行気分や異国情緒を満喫しながら、宗教や平和などについて考えてみるのはどうでしょう。

〈ぶらっくま〉
1999年入社。神戸出身の私の愛読書に、戦時下の特高警察に検挙され、仕事も家庭も捨てて神戸に流れ着いた俳人・西さいとうさん(1900―1962)の自伝的小説「神戸」「続神戸」があります。
トアロード沿いの「コスモポリタンのハキダメの、国際ホテル」などを舞台にロシアやトルコ、エジプト、台湾、朝鮮などさまざまな国の癖のある面々との関わりが描かれます。戦時中でありながら、敵性外国人や娼婦ら雑多な人種が肩を寄せ合うように生きる姿からは、開放的でわい雑な港町にしか存在し得なかったコスモポリタニズム(世界主義)が見て取れます。