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人工呼吸器をつけ 全国で初めて普通学校を卒業した歩さん 制度の壁こじ開けた35年(1)

■病院で一生を過ごす それって幸せ?

人工呼吸器を装着しながら地域の小中高校に通い、大人になってからはヘルパーの介助を受けながら1人暮らしを実現させた女性が、2021年1月に35歳で旅立ちました。

彼女の名前は、平本歩ひらもとあゆみさん。

障害のあるなしにかかわらず普通学校で共に学ぶ「インクルーシブ教育」の草分け的存在として、兵庫県尼崎市を拠点に全国で講演活動をしてきました。

その存在は、亡くなってからも多くの人たちの背中を押し続けています。

「寝たきりのパイオニア」と呼ばれていた歩さん。同じ年に生まれた私は、歩さんが亡くなってから、母の美代子さんを中心に関わりのあった方々に半年間かけてインタビューを重ねました。

※神戸新聞阪神版で2021年12月3~21日に掲載した「あゆみの道~寝たきりでも前へ~」(全11回)を加筆・再編集しました。

神戸新聞阪神総局記者 久保田麻依子

◆「おうちに帰りたい」

 2021年1月、兵庫県尼崎市内で「在宅30周年+1周年記念パーティー」と銘打ったイベントがあった。
 イベントと言うと、ちょっと不謹慎に聞こえるかもしれない。ただ、企画した大勢の人々にとって、主役への最大限のねぎらいと親しみを込めた会だった。
 それはアクティブな行動で「寝たきりのパイオニア」と呼ばれた平本歩さんの通夜だ。1月16日、敗血症のため35歳で亡くなった。

平本歩さん

 人工呼吸器を外せない中、4歳で病院を出て在宅生活を始めたのは前例がなく、パーティーは在宅31年を祝うものでもあった。
 寝台式車いすで地域の小、中、高校に通い、ヘルパーの介助を受けて1人暮らしを始めた。指先が動かなくなると、舌先につけたセンサーでパソコンを操作してコミュニケーションを取り、保育園の講師として働き、各地で講演会もこなしてきた。
 通夜が始まり、スクリーンに歩さんの映像が映しだされた。ピアニカの鍵盤を指で押し、演奏する姿に、いとおしそうに笑う声が涙交じりに湧き起こる。

 「イーヤーサーサー!」

 出演者らの覇気のある声が響き、沖縄のエイサー踊りが場を盛り上げると、みんなが口々に言った。
 「(会場の)どこかで、絶対に見てるよね」

歩さんの遺影の周りには、写真や愛用していた小物が並ぶ=兵庫県尼崎市

◆大きな宿題 残してくれた

 通夜から4カ月後、母の美代子さん(70)が1人で暮らす尼崎市内のマンションを訪ねた。
 亡くなっても周囲を明るくさせる歩さんの人柄を、私は知りたくなった。生前に会う機会はなかったが、同い年ということにも不思議な親しみを感じていた。

歩さんの母、平本美代子さん

  障害の有無にかかわらず普通学校で共に学ぶ「インクルーシブ教育」の先駆けとなり、社会のバリアフリー化を当事者が進める活動の草分けとして全国で注目されてきた。私と同じ時代を生きた彼女は、どんな世界を見てきたのだろう。
 遺影の周りに、旅先での写真や、お気に入りの「ハローキティ」の小物が並び、成長記録をまとめた冊子や、日記帳もある。
 美代子さんがそれらを少しずつ見せてくれながら、話し始めた。「娘の存在は、私たちに大きな宿題を残してくれました」と。

◆前例がなかった在宅生活

 歩さんは1985年12月、3人きょうだいの末っ子として生まれた。出生時に異常はなかったが、1カ月後から母乳の嘔吐を繰り返した。
 生後2カ月半で入院すると、人工呼吸器を外せなくなり、筋力が低下する進行性の難病「ミトコンドリア筋症」と告げられた。
 1歳を過ぎた頃だ。主治医から「親御さんだけでお世話ができそうなら、外出させてみませんか」と提案される。
 夢にも思っていなかったが、歩さんの父・弘冨美ひろふみさん(2006年に62歳で死去)が外出用の寝台式車いすを手作りし、外で過ごす時間を増やしていった。

2人の兄と両親に囲まれた、生後間もない頃の歩さん(提供)

 転機は3歳の夏。小学校の教諭だった美代子さんの長期休暇に合わせ、自宅で一緒に過ごすことにした。
 娘のうれしそうな顔が忘れられない。2人の兄が絵本を読んでくれた。公園で野鳥を見ると、手足をバタバタさせて喜んだ。手元の鈴を触って鳴らせば家族の誰かが飛んでくる。起き上がれず、言葉は発せられなくても、指先や舌、表情で意思を伝えるようになったのだ。
 外泊期間の1週間を終えて再び病室に戻り、部屋を出ようとした時、歩さんに異常を知らせるアラームが鳴った。
 慌ててのぞきこむと、大粒の涙を流し、顔はくしゃくしゃ。心拍数が跳ね上がり、指を動かして何かを訴えようとしている。
 指さす先は「お兄ちゃん」、そして、くるくると指先を回すのは何だろう…。みんなで顔を見合わせた。
 「家だ! 歩が『おうちに帰りたい』って言ってる!」

◆在宅用の医療機器 当時は保険外

 わずか4、5分。これは平本歩さんが人工呼吸器を外して命を保てる時間だ。
 1989年夏、母の美代子さんは、3歳半の歩さんが「家に帰りたい」と泣いて訴えると正直、うろたえてしまった。
 「えーっ、無理でしょ、というのが本音でしたよ」
 人工呼吸器をつけた子どもが在宅で生活するのは当時、前例がなかった。親が24時間、介助するなんてできるのだろうか…。
 自宅で使う機器も当時は保険の適用外で、どれだけお金がかかるかも分からない。何より、兄2人の子育てや仕事もあった。
 ただ、答えは決まっていた気がする。病院の天井ばかりを眺めて過ごさせることが、すてきな人生になるはずがない。数カ月後、父の弘冨美さんの強い決意にも押され、娘に語りかけた。

 「家族、みんなで過ごそうね」

 弘冨美さんは介助に専念するために建築関係の会社を退職し、自宅マンションも売って500万円で人工呼吸器などを買った。

幼少期の歩さんと母の美代子さん(提供)

 そして、福祉問題に力を入れていた兵庫県尼崎市の市職員労働組合に相談すると、すぐにボランティアの会が結成された。通称「なのはなの会」。介助を手伝ってくれたり、遊び相手になってくれたりするのだ。

 ◆子どもは子どもと育つ

  4歳になって在宅生活を始めた1990年春、両親は歩さんを保育園に通わせることを決める。自宅に近い「善法寺保育園」が快諾してくれた。 

 「なんで寝てるん?」「しゃべられへんの?」

  入園当初、子どもたちの反応は、荒波のようだった。歩さんの寝台式車いすによじ登り、顔を近づけて質問攻めにした。それでも木琴の練習時間になると、園児たちは相談を始めた。

 「どうやったら歩ちゃんも演奏できるんかな」「手を支えたらええんかな」…

 一部の保護者からは歩さんを「特別扱いしている」と批判的な声もあったという。ただ、保育士の稲垣めぐみさん(58)は「子どもは子どもの中でこそ育つ」と確信するようになった。

善法寺保育園で歩さんの担任を務めた市栄香代子さん(中央)、稲垣めぐみさん(右)と、講師時代に一緒に働いた国宝恵さん=兵庫県尼崎市

  歩さんは、舌を上下左右に動かすことで注目してほしい方角を伝えたり、「ノー」の時は舌をチェッチェと鳴らしたり。さらにペンを指先に持たせて紙を添えると、ゆっくりでも文字や絵を書けるようになった。

 5歳の秋。病院にいた時を回想してこう書いた。

  おうち、かえれないのいやだった

 おとうさんと、おかあさんと、あえないの、いやだった

 おそと、そら、たいようみたかった

 おともだちがいなかった

 おはなしができなかった

5歳のときに歩さんが描いた絵日記(提供)

 保育園では時に筆談で友だちとケンカもした。「あゆみ、ばかみたい」と書かれると「○○のあほたん」と返し「あゆみのおしりはかわいいんじゃ、わかったか」とやりこめた。友だちを怒らせて医療機器のスイッチを抜かれたこともある。

 それでも後に園長を務める市栄香代子さん(70)が言った。

 「障害のあるなしなんて、心の通じ合った子どもたちの間では、大きな問題じゃないんです」

◆学校生活 通い続けた普通学級

 人工呼吸器を付けて地域の保育園に通った平本歩さんが、地域の小学校で学びたいと思うのは自然なことだった。

 両親は兵庫県尼崎市教育委員会と話し合いを重ねる。すると、近くの市立小園小学校に障害児学級を新設することを条件に願いがかなった。

 1992年4月、入学。かつて自閉症の児童を受け持ったことのある教員の北田賢行さん(69)が担任を買って出ると、すぐに普通学級へ移った。

 「この教室には先生が2人います」。北田さんは保護者たちにそう伝え、歩さんを特別扱いするのではなく、みんなが一緒に学べることに意味があるのだと説いてくれた。

 歩さんは文字を書く時、そばで腕を支えてもらってペンを動かす。さらに、ひらがなを書いた表を指でなぞる「文字盤」を使うようになると、コミュニケーションの幅は一気に広がった。

父の弘冨美さん(左)と文字盤を使ってやりとりする歩さん(提供)

  「先生あのね。学校から帰るとちゅうワゴンに雨がかかった。お友だちふたりと帰りました。歩はちょっとだけぬれた」(1年)
 「今日、クッキーを作りました。おばあちゃんに送ります。ざいりょうは、おかあさんが買ってきました。小麦ことたまごとさとうとバターをまぜて気持ちよかったです」(3年)

 これらは歩さんが書いた日記だ。

 明るくおてんばな性格で、友だちの輪を広げるのが好き。運動会の練習でさぼっている子がいれば「○○君を叱ってきて!」と伝える学級委員長タイプだったと、北田さんは懐かしむ。

 ◆支えた教諭らの決意

  幅広い視野で敵をいち早くみつけるカメレオンにちなみ、付いた異名が「カメレオンの歩」。休み時間にも級友らがベッドを取り囲み、父の弘冨美さんが30分おきにする痰の吸引を手伝うようになった。

 市教委からは何度も「障害児学級で過ごすように」と指導を受けた。しかし、障害児学級での時間を設けると「友だちがいないのはつまらない」と訴え、ペンを落として授業をボイコットした。

「みんなと過ごしたい!」。

結局、普通学級で過ごすことが当たり前になった。

 それは障害の有無に関係なく、地域で共に学ぶ「インクルーシブ教育」の先駆けだ。日常的に痰の吸引が必要な「医療的ケア児」で、普通学校に在籍する児童は2019年度には1500人に上っているが、当時は画期的なことだった。

小学1年生の夏。小学校であった地域イベントに参加する平本歩さん(提供)

◆市教委との対立 両親の思いが制度を変える

  ただ、両親は何度も制度の壁に直面してきた。

 その一つが「垂直移動問題」。歩さんが2年生になって間もなく、市教委は突然「2階以上の移動は禁止」と通達を出してきた。

 当時使っていた寝台式車いすは上下が分離する構造で階段を使えず、歩さんを大人2人で抱えて、機材は別に運んでいた。1年生だった1年間に事故はなかったにもかかわらず、市教委は「危険」とみなした。

 教室の上階には音楽室や工作室もある。両親は市教育長に「安易な行動制限や禁止ではなく、人的配置や設備の改良が必要」と訴えたが、その回答は一点張りだった。

 「例外は認められない」

 それでも両親は諦めなかった。数カ月後の1993年8月、市幹部やマスコミを公共施設に一堂に集め、実際に歩さんを運ぶ公開実演をしたのだ。

 「その目で見てもらい、安全性を証明しよう」。数分間の手慣れた上り下りを目の当たりにした市教委は、その場で禁止を撤回し、しばらくしてベッドの昇降リフトを設けてくれた。

 「みんなで知恵を絞っていけば、道は開ける」。母の美代子さんも手応えを感じ始めた。

 支援者は全国に増えてきた。

次回(2)では、歩さんの生活を支えた父・弘冨美さんが取り組んだ障害児支援や、阪神・淡路大震災でのエピソード、父との突然の別れと新たな決意について紹介します。

 (3)では父弘冨美さんの遺言を実現するため、ヘルパーの介助を受けながら1人暮らしを実現します。仕事にも挑戦し、遠方の旅行や講演活動など精力的に取り組んでいきます。

 (4)では晩年の暮らしや思い、そして歩さんや家族たちが動かした制度や今の課題をまとめています。

(2回目以降は有料になります)

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