東大に一番近い進学校「灘校」誕生秘話
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東大に一番近い進学校「灘校」誕生秘話

 こんにちはド・ローカルです。兵庫を語る上で、この学校に触れないわけにはいきません。日本屈指の進学校。そう、灘中、灘高校(神戸市東灘区魚崎北町8)です。2021年の東大合格者は97人を誇ります。政財界に多くのエリートを輩出するこの学校は、いったいどのように生まれ、日本最強の進学校になっていったのか。学び舎(や)の軌跡をたどってみました。(文中敬称略)

①独自の柔道場 全生徒が「マイ柔道着」

灘校②(昔の全景)

 校門をくぐってすぐ、3階建ての白亜の建物が目に入った。元気のいい掛け声とともに、体を畳にたたきつける音が響く。
 灘中学校・灘高校の西館で行われている「柔道の授業」だ。1、2階部分は柔道場、3階が剣道場のフロア。柔道場には校是「精力善用」「自他共栄」と揮毫(きごう)された額縁が壁に掛けられ、ヘッドガードを着け、白帯の柔道着姿の生徒が練習に励んでいた。
 灘校では体育の授業とは別に、中学1年~高校1年の全生徒が週1時間、正課として柔道の授業を受ける。「創立当初から受け継がれている伝統です」。同校長・和田孫博の言葉に力が込もる。
 毎年100人前後の東大合格者を輩出する全国屈指の進学校。「文武両道」の進学校は数あれど、独自の柔道場を持ち、全生徒が「マイ柔道着」まで持参して履修する力の入れようはそうそうない。
 服装も、校則も、授業も自由闊達(かったつ)な灘校が、創立当初から守り続ける柔道の教えとは―。

灘校①(神戸新聞記事)

 1927(昭和2)年10月27日付神戸新聞夕刊は「灘中学校設立認可」のニュースを1面で報じている。
 この時期、大阪商人の「ベッドタウン」として急成長した魚崎町(現在の灘中・灘高周辺)。豪商たちは優秀な跡継ぎを育てようと教育に力を注ぐあまり、旧制中学の受験戦争は激化していった。
 「教育熱は今以上に高かった。心身に支障をきたすぐらいに」と同校長の和田孫博。そんな現状を憂いた地元住民らが「学校の数が足りない」と新学校設立を訴え始める。
 その実現に向け、白羽の矢が立ったのが、当時東京高等師範学校(現・筑波大学)校長の嘉納治五郎(1860~1938年)だった。
 講道館を開き、近代柔道の始祖として世界的に名をはせる嘉納は、菊正宗酒造を創業した嘉納家の分家筋として、御影村(現・神戸市東灘区御影町)で生を受けた。
 故郷からの申し出に飛び付き、早速、親類である菊正宗酒造と白鶴酒造の両嘉納家や櫻正宗の山邑家の援助を取り付ける。地元の魚崎町は土地を無償で提供した。
 自身もアジア初の国際オリンピック委員や貴族院議員などの要職を務め、多忙だったにもかかわらず、何度も神戸に戻り、学校設立に向けて力を貸した。そうして1927(昭和2)年10月24日、旧制灘中学校が創立され、翌1928年4月に開校した。                     

(2018年10月13日付朝刊から)

 嘉納治五郎と言えば、2019年、NHK大河ドラマ「いだてん」での俳優・役所広司の熱演が記憶に刻まれています。講道館柔道の創始者、そして「オリンピックの父」としても知られますが、実は「本職は教育者」だったようです。


②校是「精力善用」「自他共栄」

灘校③(嘉納治五郎銅像)

 講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、自分の学校を持つ夢を抱いていた。
 「当時、千葉県我孫子市の私有地に、校門から校舎までを想定した並木道を造っていた」と灘中学校・灘高校の学校長和田孫博。「しかし、国際オリンピック委員や貴族院議員などの激務で断念したようだ」と明かす。
 そんな中、舞い込んだ灘校の設立話。嘉納にとって「渡りに船」だった。
                 
 菊正宗酒造の分家筋として、御影村(神戸市東灘区御影町)で生まれた嘉納。祖父や父は、灘五郷の酒を江戸に運ぶ樽(たる)廻船の元締めだった。1870(明治3)年、父とともに上京、漢学や英語を学び、第一高等中学校(現・東京大学文学部)を卒業後、82(明治15)年に講道館を設立した。
 「柔道家のイメージが強いが、それ以上に教育者として誠意あふれる人でした」。嘉納に詳しい筑波大教授(スポーツ人類学)の真田久は説明する。
 講道館設立の約3カ月前、同じ敷地に私塾「嘉納塾」を立ち上げ、38年間で約350人の書生が学んだ。学習院教頭や文部省(現・文部科学省)参事官、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長も歴任、1893(明治26)年からは通算24年間、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務めた。
 熊本時代には英語教師として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を招へい。留学生受け入れのために開講した「宏文学院」(東京)には、のちに中国の文学革命の旗手となった魯迅も通っていた。
 教育者としての目まぐるしい履歴。勉学以外にも掃除や洗濯など、1日のスケジュールも厳しく、訓話をよく行っていたという。
 嘉納の理想の教育とは。
 「知育、徳育(道徳)、体育の〝三育〟を融合した教育を目指していた」と真田は言う。「品格や道徳も鍛え、社会に貢献する人間を育てたかったのだろう」
                    
 熱き教育者にとって、故郷からの学校創設の申し出は、この上なく喜ばしいものだったに違いない。
 講道館柔道で掲げる「精力善用」「自他共栄」の精神が、そのまま灘中・灘高の校是として今に生きる。精力善用とは「自己の持てる力を最大限に活用する」。自他共栄は「他人と協力し譲歩し合い、ともに切磋琢磨(せっさたくま)して伸びる」との意味だ。
 嘉納治五郎はこの二つの校是について、こんな風に語っている。
 「自他共栄を実現すれば、国際的にも精神的にも物質的にも発達すると同時に他人も同様の発達をする。身体の発達にも、精神の修養にも精力を善用に活用しなければならん。自他共栄は理想、精力善用は指針」
 灘校創立に向け、嘉納が「校長に」と推した人物がいる。当時30代半ばで、京都の女学校の校長を務めていた眞田範衛(のりえ)である。

(2019年10月14日付朝刊から)

 熱き教育者であった嘉納治五郎が、出身地である神戸市東灘区に灘校を創立しましたが、その礎を築けたのは、教え子であった眞田範衛を校長に据えたことでした。次のエピソードでは、眞田について迫ります。


③「日本一の学校にする」初代校長の誓い

灘校⑥(眞田範衛P)

 灘中学校・灘高校の創立に尽くした嘉納治五郎が、初代校長に推した眞田範衛(のりえ)は、東京高等師範学校(現・筑波大学)校長時代の教え子だった。
 当時、高等師範学校を大学に昇格させる運動が全盛期で、眞田は学生側の中心的存在の一人だった。「彼のリーダーシップや気骨ある人柄に嘉納が惚れ込んだのでしょう」。灘中・灘高の学校長和田孫博は語る。
 嘉納のオファーは熱烈だった。京都府立亀岡高等女学校(現・亀岡高校)校長を務めていた眞田の元へ1週間余りで電報と2通の手紙を寄せ、京都に駆け付け思いを伝えた。眞田の心中を書き留めた文書は残っていないが、「初代校長 眞田範衛の生涯と遺稿」(1997年発刊)の中で、眞田の娘がこう語っている。                           
 「父はこんな大変な仕事に骨身をけずってかわいそうと思った事もしばしばあった…(中略)…(しかし)父の選んだ道は、『ここに幸あり』と歌われた菩提樹の木陰に至る岐(わか)れ道であったのかもしれない」         こうして、1928(昭和3)年4月、嘉納を顧問に、眞田を初代校長とした5年生の旧制灘中学が産声を上げた。
                   
 信念を貫く。これが眞田流だった。
 時は戦中。陸海軍監督官らが予科練への勧誘で灘校を訪れた際、眞田は「勧誘は私の理念に反する」と抵抗した。灘校90周年記念誌には、敵性語とされた英語の授業が戦中も続けられたというエピソードも載せられている。
 一方で、知徳体(知育、道徳、体育)の嘉納の理想を体現すべく、勉学の奨励はもちろん、柔道を正課に採用、全国に先駆け1933(昭和8)年にはプールを建設した。また、校舎北東にあった官舎に生徒を招き、食事を囲みながら悩みなどをよく聞いたという。
 1943(昭和18)年卒の山内(やまのうち)潤三さん=神戸市東灘区=は「講話のたびに『必ず日本一の学校にする』と力を込めていた」と振り返る。
 その思いは眞田自身が作詞した校歌にも込められている。地域の風物には一切目もくれず、「四海に輝くわが日の国を―」と、冒頭から、国を背負って立つ人づくりの理想を歌う。
 そのためには、心ゆくまで徹底的に学ぶ者が集い、困難にめげず努力する健児(勇ましい若者)が心を一つにして励めば必ず栄光が輝く、と説いている。

(2019年10月16日付朝刊から)

 こうして第一歩を踏み出した旧制灘中でしたが、当時は、神戸一中(現・神戸高校)や神戸二中(現・兵庫高校)、私学では甲陽(西宮市)などのレベルには遠く届かない学校だったようです。東京大学の合格者数ナンバーワンの称号を得るのは、開校から40年の歳月を要したのでした。

④日本最強の進学校躍進への〝秘策〟

灘校④(当時の柔道道)

 灘校は中高一貫校だ。180人が中学から入り、高校から新たに40人が加わる。初代校長眞田範衛(のりえ)が「日本一の学校にする」と誓い、開校してから40年後の1968(昭和43)年、東大合格者数が132人と、東京都立日比谷高校を抜き、初の日本一に輝いた。その差はわずか1人。ただ、1学年の定員(約220人)数で単純計算すると1・6人に1人が合格するという驚異的な数字だ。70年には過去最高の151人に上った。
 1968年の卒業生で、東大理科一類に合格した東京理科大の元学長松本洋一郎は、小説「銀の匙(さじ)」を使った授業で知られる国語教師の故・橋本武(享年101)らから教えを受けたという。校内で「東大に行け」と強く指導されることもなく、松本は「むしろ、本筋から脱線する先生が多く、いろんな分野に興味を持たせてくれる授業だった」と振り返る。
 日本最強の進学校に躍進した背景には、ある〝秘策〟があった。
 戦後の学制改革で「6・3・3制」が導入され、多くの公立旧制中学(13~17歳)は、新制中学(13~15歳)と新制高校(16~18歳)に改組された。私立も中学と高校に分けられ「中高一貫校」と呼ばれるようになった。同時に公立では居住地による学区制が敷かれた。
 多くの公立進学校では、救済措置として2年間、臨時の付属中学を設け、13~15歳の生徒を受け入れた。しかし、学区制の壁により、例えば神戸一中(現・神戸高校)では、学区内居住者は新制高校に進学できたが、学区外居住者は進学が不可となった。
 このことに注目した2代目校長の清水実は「教員不足」との反対意見が出る中、神戸高校進学不可となった編入生らを無試験などで受け入れる施策に打って出た。その結果、編入生約80人中、約50人が神戸高校併設中学出身者だった。
 また、6年間の担任教諭持ち上がり制▽優秀な教師をほかの公立校よりも高い給与で採用▽テキスト選択や授業方法は自由▽教師の勉強時間の拡充―などの施策を次々と重ねた。こうしたことが呼び水となり、優秀な教師、生徒の獲得に成功していった。
 1950(昭和25)年に1人しかいなかった東大合格者が、1964(昭和39)年は56人。1967(昭和42)年には初めて100人を突破する112人に上った。以降、2021年までの54年間(69年は入試行わず)で37回も100人を超える合格者を出している。

(2019年10月17日付朝刊から)

 朝8時すぎ。神戸市東灘区のJR住吉駅から灘中学校・灘高校へ私服の集団が続きます。かばんもばらばら。まるで予備校や大学のような光景です。そもそも現在の灘校には明文化された校則がありません。生徒たちの自主性を尊ぶ「自由な校風」はどのように培われてきたのでしょうか。時計の針を52年前まで戻してみると、そこには…。

⑤自由闊達(かったつ)の校風の原点

灘校⑧(通学風景)

 「長髪規制ようやく撤廃」。1969(昭和44)年6月の「灘高新聞」に大きな見出しが躍った。
 高度経済成長期。大きな社会変化の中で、全国の大学は「学生運動」に揺れていた。この年は、1月に東大安田講堂事件が起き、入学試験が見送られる事態となった。
 ここ灘校にもその波が押し寄せていた。
 「(長髪規制撤廃は)生徒の意見の高まりが校策の変更に影響を与えた初めての例」。当時在校生だった大森秀治は振り返る。
 記事には、長髪規制を巡り、数年前から議論や運動があり、学校側は無視による拒否を続けていた。1969年になって、一部の教諭が(運動の)ビラを批判する発言をしたことで、一気に生徒側の運動が活発化。風紀委員会のアンケートや生徒と教諭代表者による協議会が開かれ、当時の梶和三郎校長らが規制撤廃を認める流れになった、とある。

灘校⑦(灘校新聞)

 これが契機となり、制度や規則の撤廃を求める〝灘校紛争〟は広がりを見せていった。
 私服通学▽国の教科書検定▽授業方法▽テストや評価―など、3日間授業をつぶしてクラス討議を行ったり、無期限ハンストで職員室前に座り込んだりする生徒も現れ、生徒VS教諭の激しいやり取りはエスカレートした。
 「生徒たちは当時の社会情勢に関心を持ち、問題点を訴えていた」と大森。その結果、服装自由化の実現や校則が書かれた手帳「生徒規約」配布の廃止、生徒たちが討議するホームルームの時間も設置された。
 「今の自由な校風が当たり前だと思えば思考停止になる」と大森は指摘する。
 「自由だからこそ、自分で考える力が必要。自由を守るには、一人一人が自覚を持ち、考えて行動するしかない」

(2019年10月19日付朝刊から)

 1928(昭和3)年4月の開校から90年を超えた灘中学校、灘高校。校門を入ってまず目に飛び込むのが、往時の姿を見せる本館です。鉄筋コンクリート2階建て、延べ約500平方メートル。日本建築協会副会長を務めた宗兵蔵が手掛け、建物下部の横帯や先のとがった窓枠など細部に装飾を凝らした洋風建築は2001年、国の登録文化財になりました。作家遠藤周作やノーベル化学賞を受賞した野依良治らもこの本館を眺めながら学生生活を送りました。一方で、90年超の歳月の中で、たびたび災厄に襲われましたが、本館だけは奇跡的にも被害を免れてきました。


⑥超克 危難を越えて見守る

灘校⑨(校舎)

 1938(昭和13)年1月未明、猛火は瞬く間に校舎をのみ込んだ。火災により、木造校舎3棟などが焼失。初代校長眞田範衛(のりえ)らの消火活動で本館への延焼を防いだものの、生徒らは新校舎完成までの約2年間、御影師範学校(現・神戸大発達科学部)の空き教室で授業を余儀なくされた。同年7月の阪神大水害、太平洋戦争時の空襲でも無事だった。
 1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災ではグラウンドや校舎の至る所に亀裂が走り、倒壊した周囲の民家から、次々と遺体が体育館に搬入された。避難者は最多で約250人に上り、灘校生が力を合わせて支援に当たった。

灘校⑩(阪神淡路)

 福島大学総合教育研究センター特任准教授の前川直哉は1995年に灘高を卒業。尼崎市の実家が半壊し、「勉強している場合か」と悩んだが、「形あるものは壊れても、学んだことは壊れない」と担任教諭に諭された。東大教育学部卒業後、灘校で教壇に立った。
 東日本大震災の5カ月後、ボランティアで福島入りした前川は「(原発事故は)学歴エリートが起こした事故。同じ過ちを起こさないように」と思い立ち、灘校の生徒たちと一緒に「東北訪問合宿」を始めた。
 懸命に復興に励む被災者の姿に引かれ、4年半前に灘校教諭を辞め福島へ。受け入れ側として今も合宿を続け、20回を超えた。  
                                             旧制中学時代を含めると灘校の卒業生は約2万人を数える。
「日本一東大に近い進学校」。その名の通り、資料が残る1950(昭和25)年以降、計6336人が東大に合格し、中でも最難関と言われる理Ⅲ(医学部)合格者の約5分の1を近年、灘高出身者が占める。
幾多の危難を乗り越えてきた灘校の学び舎(や)。これからも健児たちの成長を見守っていく。

(2019年10月20日付朝刊から)

<ド・ローカル>
 1993年入社。日本を牽引する多くのエリートを輩出するこの学校で、どんな教育が行われ、生徒たちはどのような学校生活を送っているのか、知りたかった。取材をしてみて感じるのは、東大合格者数のすごさだけではなく、理想とする教育理念「知育、徳育(道徳)、体育の融合」が体現されていることでした。

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うれしいです。姫路・網干の秋祭りの様子です(2019)
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