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兵庫ゆかりの偉大な「父」たち

その分野の先駆者となった男性を「○○の父」と呼ぶことがあります。教科書に載るような有名人からローカルな先人まで紙面では「父」と扱われています。そんな兵庫ゆかりの偉人たちを播州人3号が紹介します。

驚くような経験を重ねていますが、同じ江戸期に漂流したジョン万次郎ほど知られていないのはなぜでしょうか。
明石市と加古川市の間にある小さな町出身の「新聞の父」です。

播磨町出身 ジョセフ・ヒコ 
「新聞の父」知られざる功績
1850年代 米の万博で仮名文字紹介
記念誌制作の子孫らが発見

 兵庫県播磨町出身で、日本で初めて民間の新聞を発行したとして「新聞の父」と称されるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵、1837~97年)に再び注目が集まっている。初期の万国博覧会で日本文化を世界に発信した功績が明らかになったり、人気の児童書で親しみを込めて紹介されたり。ヒコの研究者や地元播磨町からは「これを機にNHK大河ドラマに」と期待の声も上がる。
 「こんなに立派なものを作ってもらって」―。ヒコの命日となった今月12日。恒例の墓前祭のため東京・青山霊園に集まった縁戚や研究者に、完成したばかりの「ジョセフ彦記念会誌特別号」が手渡されると、感嘆の声が漏れた。
 表紙をめくると「日本人が被写体となった最初の写真」として、14歳のヒコが現れる。乗っていた船が難破し、米国船に救助された当時のものだ。現地で教育を受け、日本人として初めて米国の市民権を得た後に日本に戻り、神奈川領事館の通訳を務めるなど外交の場で活躍。1865年ごろに横浜で、日本初の民間日本語新聞「新聞誌」を発行した。米国でリンカーンら3人の大統領と会い、伊藤博文や木戸孝允に民主主義の理念を伝えたとされる。
 しかし、ヒコより前に漂流したジョン万次郎と比べると知名度は低く、20年ほど前に第一人者が亡くなってからは研究も下火に。「ジョセフ彦記念会」が墓前祭は続けてきたが、記念会誌の発行は2000年の47号で途絶えていた。
 危機感を募らせた会員らが「これまでの研究資料や文献をまとめたものを」と完成させたのが今回の特別号だった。
 改めて関連資料をつぶさに調べたことで、新たな発見もあった。特別号冒頭に「隠れた功績」として記されたのは、米ニューヨークで開かれた第2回万博(1853~54年)で展示された仮名文字が、ヒコの筆文字と考えられるという研究報告だ。
 ペリーが黒船で来日し、日本が開国騒ぎの渦中にあった時期で、日本が1867年のパリ万博に展示品を出品するよりも前の話だ。表音文字を使っているのが文芸上の大発見だと評価され、日本の文化の高さを世界に知らしめたという。折しも、2025年には大阪・関西万博が開かれる。万博への関心の高まりとともに、ヒコの功績に光が当たれば、との期待も高まる。
 一方、偉人の失敗エピソードを集めた「失敗図鑑」(18年、いろは出版)でもヒコのことが紹介された。
 「新聞の定期購読者はたった4人で、ビジネスに失敗した」が「頑張りが土台となって、日本は世界一新聞が読まれている国になった」と語られ、子どもたちに親しまれると会員らを勇気づけている。

▼資料取り寄せ 完成に1年記念誌/地元などに寄贈予定

 完成した「ジョセフ彦記念会誌特別号」には、ヒコの縁戚ら関係者の愛情が詰まっている。中心となったのは、ヒコの妻鋹子(ちょうこ)の子孫に当たる堀千枝子さん(63)と、国際基督教大元教授の稲垣滋子さん(86)。米国など海外からも資料を取り寄せ、1年がかりで完成させた。
 会員の寄付だけでは実現は見通せなかったが、堀さんの父松本繁雄さんが「不足分は私が引き受ける」と申し出て計画が進んだ。松本さんは11月29日に95歳で死去。堀さんは「父は生前『俺は何も書き残せなかったが役に立ちたい』と話していた。特別号が出来上がるのを待って亡くなった」と声を詰まらせる。
 128ページ、A4判。新資料紹介や寄稿に加え、写真コーナーには、ヒコが住んだ神戸で撮影した一枚や、伊藤博文、木戸孝允と並んで写ったものも。「目録編」は記念会誌47号分の記事一覧や、洋書を含む文献、新聞資料を網羅した。ヒコの研究者で、「新聞誌」創刊号などを播磨町に提供した羽島知之さん(86)は「後世に残すべき価値あるものができた」と話す。
 500部発行し、非売品。今後、ゆかりの播磨町や神戸、横浜市の図書館などに寄贈する予定で、そこで閲覧してほしいという。

(2021年12月22日夕刊より)

リンカーンら米大統領とも会談した日本人です。
大河ドラマにもふさわしいエピソード満載の人生です。

次は「柔道の父」です。講道館を興した人として知られていますが、あの有名校の開設に尽力したことはご存じでしょうか。

神戸・東灘出身 嘉納治五郎テーマに講演
校長ら神戸での功績を紹介

 神戸市東灘区出身で「柔道の父」と称される嘉納治五郎(1860~1938年)の功績を紹介する「第2回嘉納治五郎の生きた時代と神戸―神戸での足跡」が1日、灘中学校、灘高校(同区魚崎北町8)で開かれた。姫路独協大副学長の道谷たかしさん(54)と灘中、灘高の校長和田孫博さん(67)が登壇し、約100人が耳を傾けた。
 阪神間モダニズムの新構築を目指す一般社団法人「ミューズ・アンバサダー・コウベ」が主催。第1回は3月、白鶴酒造資料館(同区住吉南町4)であった。
 道谷さんは、嘉納の出身地が御影村浜東(現在の御影本町)で、60歳を超えてから講道館柔道や教育の重要性を訴える講演を神戸で頻繁に行ったこと、さらには、灘中、灘高の設立に尽力した功績などを説明。「嘉納さんが神戸の偉人と知る人は少ない。もっと広めたい」と力を込めた。
 和田さんは、灘中、灘高の校是について「『精力善用』は自分の力を最大限に発揮すること。『自他共栄』は相手と一緒に成長すること。相手と戦って学ぶ柔道を重んじた嘉納さんらしい考え」と述べた。
 聴講した男性(77)は「嘉納さんが神戸の歴史と密接に関わっている人だと理解できた」と話した。

(2019年9月2日付朝刊より)

2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」では主人公の恩師として登場しました。

灘中・灘高の記事を集めた投稿はこちら

もう一人の「柔道の父」がいます。
JUDO強豪国の礎を築きました。

姫路生まれ、「フランス柔道の父」
川石酒造之助の肖像画寄贈
兄の孫、ウインク武道館に

 姫路生まれで「フランス柔道の父」と呼ばれた川石酒造之助みきのすけ(1899~1969年)の肖像画を、酒造之助の兄の孫にあたる灘菊酒造社長の川石雅也さん(72)がウインク武道館(姫路市西延末)に寄贈した。中央に酒造之助、左に弟子で柔道指導者の道上はく、右に孫弟子のオランダ人アントン・ヘーシンクの3人が描かれ、同館の柔道場の入り口に飾られる。同館では24日、雅也さんに感謝状が贈呈された。
 肖像画は縦90センチ、横180センチ。雅也さんが2016年、知人の画家柳瀬武彦さん(79)=相生市=に依頼した。3人の背景にはエッフェル塔やシテ島などフランスの風景、「川石方式」として普及した現地の指導書や、酒造之助が考案したとされる「7色の帯」が虹のように描かれている。
 灘菊酒造の展示スペースに飾っていたが、「より多くの人に見てもらおうと寄贈を決めた」と雅也さん。贈呈式では田中基康・中播磨県民センター長が「来年は柔道フランス代表が、東京五輪の事前合宿を姫路で行う。いいタイミングで肖像画を飾れることに感謝したい」と述べた。

(2019年1月25日付朝刊より)

東京五輪ではフランスの柔道代表チームがゆかりの姫路市で合宿し、新種目として導入された混合団体で日本を破って頂点に立つなど好成績を収めました。
記事中にもありますが、川石は主に白と黒の2色が使われていた柔道帯に、新たに緑や青など5色を加え、白から黒まで計7色で上達の程度を分かりやすく示し、この色分けが、後の柔道着のカラー化にもつながった、と別の記事で紹介されていました。

「コープさん」と市民に親しまれる「生協」にも「父」がいます。

「コープさん」 敬称なぜ「さん」付け?
顔見える関係 親しみ込め

 「今、コープさんで○○が安いで」「ほんま? ほなコープさん行ってくるわ」―。生活協同組合コープこうべ。言わずと知れた、東灘区に本拠を置く生活協同組合だが、年配を中心に神戸の人は「コープさん」「生協さん」と敬称で呼ぶ。流通最大手イオンも、神戸発祥のダイエーも「さん」付けにはしないのに。なぜか、コープこうべだけが「コープさん」なのだ。
 全国どこにでもある生協だが、コープこうべの広報担当者も「『さん』と敬称を付けた呼び方は、他の地域の人から珍しがられる」と打ち明ける。
 どういう心理があるのか、コープで買い物中の主婦に尋ねてみた。「地域の組織として昔からあるし、他のスーパーより身近な存在。だから『コープさん』になるのかな」とは灘区の女性(68)。市内だけで64店舗。まるで知り合いか友人のように呼ぶのは、消費者との距離の近さが要因の一つのよう。
 各家庭に商品を届けるオリジナルの宅配サービスが理由という説も。顔なじみのスタッフが、食品や日用品を届けてくれる「顔の見える関係」はコープの強み。灘区の別の女性(77)は「毎週家まで宅配してくれるでしょ。届けに来てくれる人への親しみを込めて」と愛着を語る。別の30代女性は、店に買い物に行く時は「コープ」、宅配に来てもらう時は「コープさん」と使い分けるというから面白い。
 だが、神戸にはほかにも多くの店舗を構え、宅配もするスーパーはある。親しみの遠因に挙げられるのが、コープこうべの成り立ちだ。「1921(大正10)年から続く歴史の長さが関係するのだと思います」。コープこうべ広報室は話す。
 約100年前にさかのぼる。「生協の父」として知られる社会運動家・賀川豊彦の指導で、コープこうべの前身にあたる神戸購買組合、灘購買組合が誕生。第1次世界大戦後の労働者の生活安定を目指し、組合員が出資し合うことで必要な食材などを手に入れやすくした。実際、東灘区の組合員(75)は「賀川さんへの信頼を込めて呼ぶ人もいる」と話す。
 また、組合と同時に始まったのが、組合員の自宅を1軒1軒訪ねて歩く「御用聞き」。現在の宅配サービスの元祖で、朝に各家庭で必要な物を聞いて回り、晩ご飯を支度する夕方ごろには届けに来た。
 毎日自転車でやって来て、ときには無駄話をして帰って行く。その人たちは「購買さん」と呼ばれた。広報室が「『コープさん』と呼ぶのは、その時の名残なのかもしれません」と教えてくれた。当時の自転車は、今はトラックと青いかごに姿を変え、街を走る。商売の枠を超えて、地域と暮らしに寄り添う。コープに対する敬称はその姿への共感とも映る。
 「コープさん」の呼び名について、武庫川女子大(西宮市)の言語文化研究所の研究員佐竹秀雄さん(70)は「大阪の人があめを『あめちゃん』と呼ぶ現象と似ているが、少し違う」と指摘。「どちらかと言うと、神社を『天神さん』『生田いくたさん』と呼ぶような感覚で、親しみと敬意が込められているのでは」と分析した。

(2018年1月1日付朝刊より)

このほか紙面では「兵庫県文化の父」(富田砕花)、「播但線の父」(内藤利八)、「養蚕の父」(上垣守国)らが見つかりました。

<播州人3号>
1997年入社。試しに海外の「父」も調べてみました。「音楽の父」(バッハ)、「近代オリンピックの父」(クーベルタン)、「中国革命の父」(孫文)、「近代劇の父」(イプセン)らが紙面に登場していました。

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