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忍者と兵庫

今回のテーマは「忍者」です。謎に満ちた存在が子どもから大人まで幅広い世代を引きつけてきました。高名な忍者ゆかりの地が残っているわけではありませんが、「兵庫と忍者」という切り口なら多彩な記事が見つかりました。播州人3号が紹介します。

まずは但馬出身のこの作家から。
昭和30年代に忍者ブームを巻き起こしました。

養父出身、「忍法帖」で忍者ブーム生んだ作家 生誕100年 山田風太郎の全貌
姫路文学館で特別展


 伝奇小説「忍法帖」シリーズで昭和の世に忍者ブームを巻き起こした養父市出身の作家、山田風太郎(1922~2001年)。その生誕100年を記念した特別展(神戸新聞社など後援)が、姫路市山野井町の姫路文学館で始まった。戦後を駆け抜けた人気作家の足跡を、本人が残した膨大な資料などを基に紹介。戦争への思いや死生観にも焦点を当て、開催地・姫路との縁にも触れる。
 没後初の大規模展。時系列に沿った3部構成で、若いころにアイデアを書きためた「小説腹案集」をはじめ、日記、書簡、愛蔵品など約260点が並ぶ。
 養父・関宮の医師の家系に生まれた山田誠也せいやは幸福な幼少期を送るが、10代半ばまでに相次いで両親を亡くす。むなしさを埋めるかのように、旧制豊岡中学時代から文学や映画に傾倒。小説や詩のほか、画才があったことから挿絵も旺盛に発表し、18歳で初めてペンネーム「山田風太郎」を使用する。
 作品が掲載された校友誌や友人の教科書への落書きからは、病弱だが剣道が得意で文章や絵も達者、さらに社交的と、当時からの多才ぶりがうかがえる。
 留年や医学部受験浪人を重ね、20歳の時に家出同然で上京。軍需工場で働きながら図書館に通い、旧友に手紙で「腹案」を披露した。1944年3月、召集されて姫路を訪れるが、肺を患っており、即日東京に戻される。同級生が戦死していく中、従軍しなかった自分を「傍観者」と称し、当事者たり得なかった者として、なぜ日本は戦争をするに至ったか、なぜ負けたのかなどを生涯にわたり繰り返し考察した。
 後年、終戦の年の1年間を記した「戦中派不戦日記」のあとがきで「人は変わらない。そして、おそらく人間の引き起こすことも。」と書いている。担当学芸員の市太佐知さんは「戦争への考察は、今の時期だからこそ胸に迫るものがある」と話す。
 戦後、医学生時代に探偵小説でデビュー。流行作家の階段を駆け上がり、卒業して作家専業となる。発想力、徹底した取材に裏打ちされた緻密な構成を武器に、ミステリーから伝奇、時代小説、実録物、エッセーまで幅広く手けた。
 市太さんは風太郎の小説について「同時代の著名人を巧みに交錯させ、読者に『あり得たかもしれない』と思わせる。話の膨らませ方が本当に面白い」と解説する。130編以上が記された腹案集からは、作家がどのように虚実を織り上げていったのか、その過程が見て取れる。

(2022年4月21日付朝刊より)

忍者ブームは風太郎よりも前、大正期にも起こりました。
少年達が競うように読んだのは「立川文庫」という小型本です。
とりわけ少年忍者ものが人気だったようです。

その立川文庫、創業者は姫路出身です。
ちなみに「立川」は「たちかわ」でなく「たつかわ」と読みます。

「立川文庫」生みの親
 姫路・勝原出身 立川熊次郎
 川端康成も松本清張も 子どもの頃に愛読

 日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹、日本文学の最高峰・川端康成、戦後社会の闇を描いた社会派推理作家・松本清張…。いずれ劣らぬ知の巨人たちが、子どもの頃に愛読したのが「立川たつかわ文庫」だ。最大のヒット作は、少年忍者「猿飛佐助」の活躍を描いたシリーズ。文庫をつくった立川熊次郎(1878~1932年)は〝大正の文庫王〟の異名で名をはせたという。熊次郎の故郷、姫路・勝原には「少年少女を夢中にさせた熊次郎を、地元の子どもたちに知ってもらいたい」と願う人がいる。
▼最大ヒットは「猿飛佐助」
 「とらしてかわのこし、ひとしてのこす、建武けんむむかし大楠公正成だいなんこうまさしげくだって真田幸村さなだゆきむら…」
 こんな一節で最大のヒット作「立川文庫第四十編 真田三勇士 忍術名人 猿飛佐助」(大正3年刊)は始まる。
 姫路立川文庫研究会の代表を務める三木基弘さん(67)=姫路市勝原区=は復刻版を手に、「文章は講談調のリズムで、漢字には全てルビが振られていて読みやすい。子どもたちを夢中にさせたのもうなずける」と話す。
 猿飛ものの物語の筋はこうだ。甲賀流忍術の名人「猿飛佐助」が、豊臣方についた真田幸村に仕え、あの手この手で宿敵徳川家康を苦しめる―というもの。現代では「真田十勇士」のイメージが強いが、タイトルには「三勇士」とある。
 「文庫では後に七勇士、十勇士へと話が膨らんだ」と三木さん。「家康をたぬきおやじに仕立て、少年忍者の猿飛たちが活躍する筋立ては大阪の土地柄にぴったり。熊次郎は、アンチ東京の空気や時代を読むのにたけていた」と感心する。
 熊次郎が書籍商「立川文明堂」を創業したのは1904年。大人向けの実用書に加え、講談師が寄席で語る様子を速記した本を発行していたが売れなかった。
 転機は、講談師玉田玉秀斎ぎょくしゅうさい一家との出会い。当時はやりの講談を基に、主に講談師が創作を加えて執筆する「立川文庫」を11年に創刊した。手のひらサイズで1冊25銭。1冊1円の廉価販売でブームとなった「円本」に比べても格安だ。
 「一休禅師」「水戸黄門」「大久保彦左衛門」など、おなじみの物語を続々と発行。確認されているだけで、大正末期までに約200編が出版されたという。
 人一倍勤勉で、常に新聞を熟読し社会の動向を研究していたという熊次郎。三木さんは「出版業を興すからには、多くの人に受け入れられるものを模索したはず。少年少女に夢を与える物語を届けたくて、立川文庫を充実させたと思う」と話す。

(2020年6月5日付朝刊より)

出版業で成功を収めた熊次郎は、ふるさとのために私財を投じます。

▼橋架設、忠魂碑建立に寄付 「宗教心あつく、古里思い」


 立川熊次郎の古里、姫路市勝原区宮田は、JR神戸線はりま勝原―網干間にある。大正期の出版人として一世を風靡ふうびした熊次郎は、地元への恩返しを忘れなかった。その一部は今も残っている。
 地区を南北に貫く大津茂川に架かる宮田橋のそばに、大正橋架設記念碑がある。1916(大正5)年に熊次郎らが寄付して架けられた石橋「大正橋」の石材が記念碑として残されている。大正橋は掛け替えられ、現在は宮田橋として川の東西をつないでいる。
 もともと大津茂川は、くねくねと蛇行し、ゆるやかな流れだが、少しの雨で氾濫する「暴れ川」だったという。牛車や荷車の通行に耐えられない木橋で、氾濫のたびに流失するなどしていた。川に架かる橋が少なく、往来の不便を感じていた住民にとって、大正橋は「近郊随一の石橋」となり、熊次郎の両親が橋の渡り初めをしたという。
 市立勝原公民館の向かいにある旧「勝原村」の戦没者を対象にした忠魂碑を建立する際も、熊次郎が多くの寄付をした。姫路立川文庫研究会代表の三木基弘さんは「実直で宗教心があつく、古里思いだった熊次郎の人柄が伝わってくる」と話す。

〈立川熊次郎〉 1878年、現在の姫路市勝原区宮田生まれ。裕福な家だったが、父が事業に失敗して生活が苦しくなり、熊次郎は小学校を退学。病身の父に代わって一家を支え、大阪で書籍商「立川文明堂」を創業した。取次から出版に事業を広げ、立川文庫を創刊して大ヒットさせた。所用で東京に出掛けた際、新聞が「文庫王、立川熊次郎氏上京」と記事に書き立てたという逸話もある。1932年、病のため53歳で亡くなった。店は大阪大空襲で全焼し、立川文庫の紙型・鉛版もすべて失われたとされる。

現代の子どもたちが思い描く「忍者」には、この作品が影響しているのではないでしょうか。
作者の尼子騒兵衛さんは尼崎市在住。間もなくアニメ放送開始から30年の節目を迎えます。

「忍たま」と歩んだ漫画家の道
尼崎で「尼子騒兵衛展」
原画など1500点展示
温かな笑いの神髄に迫る

 ほのぼのした忍術学園の世界観は尼崎で育まれた。猪名寺いなでら食満けま潮江しおえ…。漫画のキャラクターは地元の地名を名乗って躍動し、世代を超えて愛される。テレビアニメ「忍たま乱太郎」などを生んだ漫画家の歩みを紹介する「尼子騒兵衛展」が、尼崎市総合文化センター(同市昭和通2)で開催中だ。少女時代からの作品など約1500点を展示。美しい配色の原画に加え、温かな笑いの神髄やあきらめない心を伝える。
 尼子さんは尼崎市の港町・築地つきじの生まれ。長屋で暮らした「昭和の子ども」で、自身が乱太郎のモデルという。神社の境内などでたくさん遊んだ経験が、作品の中に反映されている。
 漫画「落第忍者乱太郎」(コミックス全65巻)は、室町時代の子どもが通う忍術学園の群像劇だ。ギャグが次々と炸裂さくれつし、助け合いが心を熱くする。尼子さんは忍者の秘伝書の復刻版を読み、忍術の名前は実際に伝わるものを記すなど、綿密な時代考証を重ねた。
 「地名って大切な文化遺産」。今も尼崎で暮らす尼子さんの持論だ。七松ななまつ善法寺ぜんぽうじ時友ときとも…。忍者に名付けられた場所を探して、全国のファンが尼崎を訪れ「地名めぐり」を楽しむ。
 少女時代から漫画家を夢見て、働きながらも描き続けた。1986年、朝日小学生新聞で同作の連載を始め、アニメ化作品「忍たま乱太郎」は93年からNHKで放送が続く。94年までは会社員生活と創作活動を両立させた。
 苦難も経験した。2019年1月、脳梗塞で倒れ、利き腕を含む右半身に後遺症が残った。同年12月に「落第忍者乱太郎」の連載を終えたが、リハビリを重ねて、20年4月から同新聞で古典文学を紹介する新連載に取り組んでいる。
 会場では、落第忍者乱太郎の全キャラクター630の初登場シーンを中心に原画528枚で紹介。絵と歴史が大好きな少女時代に描いた漫画やイラストは初公開だ。「いつか漫画家になれたらいいなという夢」の軌跡を見せる。リハビリの過程で描いた作品もあり、不屈の精神を伝える。
 尼子さんは会場で、ファンの応援に感謝し「よう描いたなあ。一歩歩いて見るごとに、懐かしさ、びっくり、しんどさ、楽しさを感じます」と振り返った。

(2021年8月6日付朝刊より)

高名な忍者の足跡を紙面で見つけられませんでしたが、「忍者の里」ならぬ「忍者の墓」の話題が取り上げられていました。

豊岡 出石・奥山に忍びの影
茗荷谷の「忍者の墓」探る
木から逆さまにぶらさがって悪者押さえつけた。 村民の言い伝えも残る

 「忍者の墓」があるという。戦国―江戸時代にかけて大名や領主に仕えて諜報ちょうほう活動などをしていたとされる忍者。甲賀(滋賀県)や伊賀(三重県)は有名だが、但馬にもかつて忍者がいたというのだ。言い伝えが残るのは豊岡市出石町奥山。その名の通り奥深い山里へと向かった。
 出石の城下町から車で15分ほど、豊岡市と朝来市の市境に位置する奥山地区。現在は6世帯11人が暮らすのみという限界集落だ。最近まで住民が居住していたとみられる立派な空き家も散見される。
 山あいの坂道を上ると、一軒のそば店が目に入った。「手打蕎麦・剣」という店名にも〝忍者のにおい〟が漂う。
 「この辺りに忍者の墓があると聞いたのですが」―。尋ねてみると、店主の川見健治さん(68)が教えてくれた。「ここからさらに北です。『茗荷谷みょうがだに』と呼ばれる別の谷まで行かないといけません。案内しましょうか」
 川見さんの先導で茗荷谷へ。長靴に履き替え、川沿いのぬかるんだ山道を上る。立派な杉木立に囲まれた山道のすぐそばを流れる川音が耳にこだまする。息が切れそうになりながらも、ゆっくりと進む。
 突然、川見さんが声を上げた。「これです」
 指さしたのは、道端にごろんと横たわる細長い石。墓石のようなものを想像していたが、これは普通の自然石では…。
 拍子抜けして反応の薄い私をよそに、川見さんは石を起こした。目を凝らすと、石にはうっすらと「卍」や「鬼」のような文字らしきものが刻まれているのが分かった。

 茗荷谷の忍者は、芥川賞を受賞した剣豪小説家、五味康祐やすすけ(1921~80年)の短編集「剣法奥儀(おうぎ)」に登場する。忍者がすみかにしていた道場に主人公が入ると「ほの暗い内部で無数の黒装束の武士が、天井から逆さにぶら下がっていたのである。巣窟にやす蝙蝠こうもりのように」―。不気味な忍びの様子が描かれている。
 川見さんによると、忍者は戦国時代から江戸時代にかけて生活していたとされ、「小説の『道場』はこの地にあった本覚寺(現在は出石の市街地に移転)を指しているのでは」と話す。
 30代まで茗荷谷に暮らしたという男性(84)=同市出石町安良=は子どもの頃、祖母から聞かされた話を覚えている。「高さ15メートルほどの大滝の近くに道があり、忍者が木から逆さまにぶらさがって悪者を押さえつけた」―。忍者は住民に好意的に受け止められていたようだ。
 道端に横たわる「忍者の墓」を見つめる川見さんは「行き倒れた忍者を見つけた村人が弔ってあげたのかも」と思いをはせる。

 「この先にある廃村をぜひ見てほしい」。川見さんの言葉に促され、さらに山道を上る。
 40分ほど歩くと、こけむした立派な石垣が現れた。5軒の民家が集まっていた集落跡だ。杉木立の隙間から光が差し込み、わずかに残るかまどやタイル張りの炊事場を照らす。
 電気も通っていなかった集落。冬は雪深く、子どもたちは夜明け前に家を出て学校に通ったという。
 静かに目を閉じる。ランプ生活で養蚕を営んだ人たち―。かつてこの山奥で暮らした人々は、確かに存在したのだ。江戸時代なら、深い山中で忍者と出くわすことがあったかもしれない。

▼城の警備要員として活動か

 忍者を研究する三重大の山田雄司教授(日本古代・中世史)の話
 江戸時代には藩に仕えた忍者は武士の階級を与えられたので、墓が作られた可能性はある。城下町が近くにあるなら、城の警備要員として活動していたのかもしれない。

(2020年5月12日付朝刊より)

世界遺産・国宝姫路城では忍者の登場するイベントや体験教室が開かれていました。
映画やアニメ、ゲームを通じて「NINJA」の人気は海外でも高まっており、訪日外国人客らを引きつけるコンテンツになりそうです。

闇夜の姫路城
忍び現る
あすからイベント

 世界文化遺産・国宝姫路城(姫路市本町)で30日、忍者をテーマにした夜の体験型イベント「HIMEJI CASTLE NINJA NIGHT」が始まる。開幕を前に28日、報道関係者向けの内覧会があり、最先端のデジタル映像を駆使した幻想的な演出が披露された。11月8日まで。
 夜の催しを通じて宿泊型の観光を促進しようと企画された。
 目玉は大天守近くの石垣をスクリーンに見立てた忍者ショーで、1回15分程度。午後6時半から40分ごとに披露され、観客の拍手の大きさによって背景が変わるという。人の動きに反応して渦巻きや炎などの映像が流れ、忍び気分を味わえるコーナーも。随所に光と音楽の演出が施され、日中とは異なる姫路城を楽しめる。

(2020年10月29日付朝刊より)

<播州人3号>
1997年入社。40年ほど前、播州では「ポン菓子」の移動販売がたびたび開かれていました。米(好みでマカロニも)と砂糖を持参し、手間賃を払うと、ポリ袋いっぱいの甘い菓子になりました。米を膨らますためでしょうか、圧力を一気に抜く工程があります。大きな音とともに白煙がもうもうと立ち上ると、子ども達が一斉に駆け出します。忍術を繰り出すポーズをとりながら「にんぽ~」や「えんまくー」と「呪文」を唱えました。「仮面の忍者 赤影」や「サスケ」「忍者ハットリくん」「科学忍者隊ガッチャマン」などがテレビで放映され、多くの子どもは忍法や忍術にあこがれていました。

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