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ミナト神戸の灯台めぐり

暗い海に向けて光を放ち、船乗りたちの安全を守り続けてきた灯台。150年以上の歴史を誇る神戸港には多彩な施設があります。ミナト神戸の景観の一部をなすものなど播州人3号が紹介します。

ここがどこなのか、ひと目で分かります。
夜の明かりだけでなく、昼間も「文字」で訴えているからです。
たった3字ですが、掲げること自体が貴重なことのようです。

神戸港 日本でここだけ灯台に災いよけ文字
市が設置 開港100周年で書家が筆執る

 神戸港の入り口に、力強い筆文字で「神戸港」と書かれた灯台がある。何の変哲もない表示に見えるが、神戸海上保安部によると「港名を記した灯台は日本でここだけ」。他港との格の違いを示しているかのようだ。
 灯台は、ポートアイランドと和田岬の間に延びる第一防波堤の東端にある。2メートル四方の板3枚に1字ずつ書かれ、船上からはっきり見える。
 神戸港振興協会の資料では、1964年から2年続きで台風による高潮などの被害を受けたため、安全を祈願し長浜洸さんという女性書道家が筆を執った。1967年、開港百年の記念事業として市などが灯台に掲げた。
 灯台に字を書いたり看板を掲げたりといった行為は法で禁じられており、照明を邪魔しないなど国が認めた場合だけ、許可される。「文字を掲げてから、昔のような大きな台風被害はない」と同協会。開港140年目のミナトを、今日も静かに見守る。

(2007年5月23日夕刊より)

書家の文字には荒れる海を鎮める願いも込められていました。
東の灯台があれば、西にもあります。

のっぽサンタ、神戸に
「赤灯台」飾る

 灯台がサンタに―。真っ赤な塗装から「赤灯台」として知られる神戸第一防波堤西灯台(神戸市兵庫区沖)に3日、目や鼻、白いあごひげなどが飾りつけられ、サンタクロースに変身した。
 博多港(福岡県)の灯台で同様の装飾が始まっていることに倣い、文化交流施設「波止場町TEN×TEN」(神戸市中央区)を運営するNPO法人などが企画した。
 目や鼻、ひげは、カーペットを切り抜いてペンキで着色するなどして制作。同法人のメンバーら約10人が、約1時間半かけて取り付けた。
 ほほ笑む「サンタ灯台」に、神戸海上保安部は「安全をプレゼントとして運んできてくれたらありがたい」。一方、不況で神戸港の貨物取扱量などは低迷しており、神戸港振興協会は「活気も呼び込んでほしいなあ」と願いを込めた。

(2009年12月4日付朝刊より)

外国船の船員たちの表情も思わずほころびそうです。
珍しい場所にある灯台もあります。

そこはホテルの屋上でした。

ホテルの灯台 未来照らす

 日本で唯一、ホテル屋上に立つ現役の灯台が、神戸港中突堤にある。海図にも載っている海上保安庁公認の航路標識だ。
 元々は旧オリエンタルホテル(神戸市中央区京町)の屋上にあった。船会社出身の社長が1964年、「港町のシンボルに」と作った。95年の阪神・淡路大震災で、全壊した建物とともに壊れて使えなくなった。
 同一グループだった神戸メリケンパークオリエンタルホテルが引き継ぎ、震災半年後から2代目が稼働。両ホテルで総支配人を務めた男性(75)は「灯台が復活したとき、遠くまで届く明るい光は復興の兆しに見えた」と話す。
 以来、港を行き交う船を導いてきた。ホテルの14階、海抜55メートルにある白い鉄塔(約5メートル)は赤と緑の光を放つ。遠く紀淡海峡からも見えるという。

(2017年1月12日夕刊より)

阪神・淡路大震災のあった1月17日などに特別公開されています。
近くで見ると、こんな灯台です。

個性的な灯台はほかにもあります。
神戸市垂水区沖の平磯灯台です。

正式には「平磯灯標」といい、1893(明治26)年に3年がかりの難工事を経て点灯した現存最古の水中コンクリート製です。

歴史的な灯台は海だけでなく、山にもありました。
「灘のひと」と呼ばれる史跡です。

標高185メートルにある保久良神社(神戸市東灘区)の参道越しに輝き、古くから沖を航海する船の目印にされてきたといいます。

現役ではありませんが、「須磨の赤灯台」と呼ばれて親しまれている国登録文化財があります。

国登録 旧和田岬灯台
戦後廃灯、白から赤へ

 神戸・須磨の青い海、白い砂浜にそびえ立つ赤い姿が映える。現存する鉄造灯台としては日本最古の「旧和田岬灯台」。高さ約16メートル、六角形の3層構造で最上部には灯籠を備える。今は灯をともさないが、「須磨の赤灯台」の愛称で親しまれている。
 当初は兵庫区の和田岬にあり、しかも「白灯台」だった。「昔は白かった、と覚えている人も多いです」と、須磨区内の歴史遺産を案内するNPO法人「須磨歴史倶楽部」の副理事長の男性(63)。和歌や平家物語にまつわる史跡への道中、赤灯台前では須磨の近代幕開けに光を当てる。
 1867(慶応3)年、江戸幕府は英国との条約で灯台5基の整備を約束。和田岬灯台は71(明治4)年に完成し砲台の隣で光を放ち、航海の安全に一役買った。木造八角形だったが、84(同17)年に現在の形に。空と海との対比で目立つよう白く塗られた。
 戦後、和田岬で埋め立てが進み、1963(昭和38)年に廃灯に。神戸市は産業建築を残そうと、第5管区海上保安部から譲り受けて須磨に移築。廃灯を示すため赤く塗り直されたという。
 なぜ須磨海岸に移築したのか―。市教委は「海浜公園が整備されていたため」というが、男性が観光客に説くのは、須磨を知る人ならではの見方だ。
 須磨海浜公園はかつて、財閥の住友家当主の別荘地だった。03(明治36)年の洋館完成を皮切りに別荘が林立。海辺には近代化を凝縮したような風景が広がったという。「須磨の近代化を象徴する場所に近代の発展を支えた灯台。これ以上ふさわしい移築先はなかったのでは」
 場所や色が変わり、〝照射先〟は海上交通から歴史に移ったが、地域での存在感は変わらない。
〈メモ〉 「日本の灯台の父」と呼ばれるイギリスの技師ブラントンが設計。1998年、国登録文化財に指定。毎年11月1日の「灯台記念日」に内部を一般公開する。

(2015年10月8日付朝刊より)

<播州人3号>
1997年入社。朝刊担当のデスクが編集フロアの消灯役です。未明までこうこうと明るかった編集局の電灯を消すと、遠くから灯台の赤や緑の光線が真っ暗なフロアに届きます。「ミナト神戸」を感じる瞬間で、締め切り間際の作業で張り詰めていた緊張が少しだけ和らぎます。

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